他人の痛みがわかる人は、きっと優しい。
菅内閣の支持率がやたらと高いらしいが、それは彼が雪深い秋田という土地に生まれ、高校卒業後にダンボール工場で働き、そこから這い上がってきたというサクセスストーリーも大きく影響してのことであろう。
苦労はその人にとって何か良いものを生み出すもの。そう信じていたいというのが人間のさがなのだと思う。そうでなければ、これまで自分が耐え忍んできた苦労でさえ、すべて無駄なことのように思えてしまうから。どうか他人にも、傷つくほどに優しくなったり強くなったりして、マイナスをプラスに昇華させてもらわなければ困るのである。この世に生を受けたその時から、寿命と引き換えに何かを得なければいけないという強迫観念との戦いが始まっている。
私はこれまでに何度か、ひどい振られ方をしている。サイコパスめいた人間から散々な侮辱を受けたこともあれば、やっとの思いで付き合った年下のイケメン彼氏から金の無心をされ、それを断ったら盛大に逆ギレされたこともある。はじめて付き合った彼氏からは、ロクにデートもしないままに連絡を絶たれた挙句、「おい貴様、俺様の化粧水とシェービングクリームを勝手に使うなんてどういうつもりだ」と振られた後に説教された。
これらの苦労だって、なんとかして我が血肉となってもらわなければならない。無駄に傷ついて捨てられて時間を無駄にした、そんな風に断じられて終わってしまうだけでは辛すぎる。
振られるたびに、恋愛計画を見直した。傷つくたびに、人の心というものを学んだ。世の中に蔓延る恋愛本を読み漁り、メンタリストが喋るだけの動画を食い入るように試聴した。多くの恋愛指南においては、男はこう、女はこう、だからこうしろ、という理屈ばかりが述べられていた。それらを目にするたびに、だったらゲイはどうすればいいのだよと絶望した。仕方がないから、どちらにも目を通して、男とか女とかいう以前の人間の本質というのものが見出せないか奔走した。標準から外れるということは、楽に得られるノウハウが一気に減るということを意味するのだと実感した。恋愛も、デジタル革新も、人生も、そのことは一緒なのだなぁと思った。
もう、人と付き合うことなんてないのかもしれない。そんな風に思っていたある休日、出会い系アプリで2歳年下のイケメンからメッセージが届いた。「こんにちは」という簡単な挨拶からはじまるやりとりだったが、お互いの距離が近く、また共に暇だったらしく、すぐに外で会ってみることにした。
待ち合わせ場所に現れた彼は、写真の印象よりも少し幼く見えた。顔は幼いが、話ぶりはしっかりしている。モテそうなタイプだなと思った。喫茶店に入り、お互いの自己紹介をすると、なんと彼は二日前に恋人と別れたばかりなのだと話し始めた。どうやら、付き合って半年ほどで振られてしまったらしい。
そもそも、最近だんだんと連絡の頻度もさがり、相手が冷めている温度をひしひしと感じていたのだと彼は話し始めた。「半年でそれかぁ。釣った魚に餌をやらないタイプだったのかもね。」とこちらから言ってみたら、「まさにそれです。今思えば、最初から変なやつでした。付き合ってからすぐにLINEで、相手の写真に吹き出しで『おはよう』とか『眠い』とかいう台詞が合成されている画像が送られてくるようになったんです。」と、釣った魚に餌をやらないどころか、餌の種類の問題にまで言及をしだした。なかなか人を選びそうな餌である。いちいち手作りしているのであろうか。一体どんな気持ちで...。
こちらとしては、相手が別れたばかりだという人間のことを悪く言っていいものなのかも分かりかねるので、「それは...なかなかユニークな方だねぇ...」と客観性に配慮したコメントを伝えるのが精一杯である。すると目の前の彼はさらにヒートアップし、「もうなんか色々と変なんです。出会って2回目で告白してくんなよって感じだし。今年の4月に彼の友達カップルを含めて旅行に行ったんですけど、緊急事態宣言中に旅行に行ってもいいのかなって問題提起したら嫌なら来るなとだけ冷たく言われるし。旅行中彼の友達は自分に明らかに冷たいのに彼は何もしてくれないし。」と、「それは別れてよかったかもねぇ...」とこちらから言わざるを得ないエピソードを矢継ぎ早に話し出した。2回目で告白というのは彼にとっては早すぎるのかぁ...では何回目ならいいのだろう?と密かに思ったが、そこはいったん流すことにした。
2日前に電話で振られたばかりということで、まだ感情もうまく整理できておらず、色々と溜まっていたのだろう。彼は実家に住んでいるとのことだが、振られて泣いているところを父親に見られもしたらしい。ちなみに、彼の実家は寺で、父親は住職であり、彼はその三男とのこと。ゲイであることは家族にカミングアウト済みで、その際は母親に泣かれたらしい。母親は、息子がゲイであることが悲しかったわけではなく、息子が辛い気持ちだっただろうと想像し、涙したのだそうだ。いい話である。
自分の体験したことのない人生に想いを巡らせ、その人の苦労を想像する。そんな当たり前のようなことすらできない人間が議員をやっている世の中である。人の想像力が作る優しさを当たり前だと思ってはいけないのかもしれない。それはとてつもなく悲しいことだけれど、そこから逃げ出す術はどこにも用意されてはいない。
ちなみに私の出身地に一つだけあった寺の住職は、競合の寺がその地域に進出してきそうになった際に、「向こうの寺に何かを依頼した家の儀式には一切手を貸さない」と高らかに宣言し地域全体に脅しをかけることで、競合の寺が進出してくることを防ぎ、自らの豊かな暮らしを守り抜いたという実績がある。坊主丸儲けである。そういった様子を見て育ったため、私は神も仏も信じない信仰心ゼロの人間となったわけであるが、目の前の寺生まれの青年からは、なんだかいい人そうなオーラを感じる。都会の寺の中にはいい寺もあるのかもしれない。
「ていうかすごく若く見えるよね。よく言われるでしょ?」
明るい話題に切り替えようと、彼をそう褒める。彼がそれに応える。
「そんなことないですよ。元カレの方がすごいです。高校生くらいに見えるんです。34歳なのに。」
うそでしょ。なにそれ。奇跡の34じゃん。そんな人いるわけない。石原さとみでさえ、女子高生を演じるには成熟しすぎている印象を受ける。
「写真見ます?」
彼がそう言い、携帯を差し出してくる。毎日のように自らの写真に吹き出しで台詞をつけた画像を送信してくる男。よほど自らのルックスに自信があるのだろう。私は期待に胸を膨らませて、携帯の画面に映る写真を覗き込み、そして目を疑った。
私はこの人と、付き合ったことがある。
いや、もはや付き合ったなどと言って良いレベルなのかは分からないが、一応付き合うという契約を交わし、その後連絡を断たれ、最終的に相手の化粧水とシェービングクリームを勝手に利用してしまったことを盛大に糾弾されたことがある。
そう、この人は前述した私にはじめてできた彼氏であった。
すなわち、目の前にいるこの青年は一応私の元カレの元カレということになる。同じ男に振られ、傷つけられたもの同士、固い絆で結ばれるということもあり得る。敵の敵は味方のはずだ。
そんな目の前のこの青年に対して伝える言葉を私は瞬時に選びとる。
高校生には見えねぇよということ。このレベルのルックスで自分の写真に台詞つけた画像送ってくんの?という驚嘆。そして、俺、以前この人に会ったことあるよ、という情報。
自分も前にこの人と付き合ったけれどもあなた以上に速攻餌をもらえなくなって捨てられましたよ、そのスピード感たるやあなたの比じゃないよ、こいつムカつくよね、という情報を私はあえて伝えないという選択をした。彼の元カレに捨てられたという事実は、私の価値がその元カレよりも低いものだということを彼に連想させることを危惧したのである。負け犬同士傷を舐め合う材料にはなるかもしれないが、恋愛のはじまりには邪魔なだけである。
情報が価値を持つ時代である。しかし、なんでもかんでもアホみたいに使えばいいというものでもない。手元にカードを残すという選択が、後々有効に働くということもあるのだ。
この人ねー、確かにナルシストっぽいもんねー、と、昔の怨みを晴らすように悪口で盛り上がる。
付き合った男から、釣った魚として早々に餌をもらえなくなり、すぐに捨てられたという同じ悲しみを持つ男。自分一人だけがこの情報を持っているせいで、自分の中にある親近感だけが勝手に大きくなっていくように感じる。悲しみが優しさを作るのだとしたら、目の前の彼は、少なくともあの時私が得たものと同じくらいの優しさは持っているということになる。紅茶を飲みながら話す彼の細かい気配りや言葉遣いも、なんとなくそのことを裏付けているようにも見える。
喫茶店で盛り上がり、二次会として夕食を食べにいく。夕飯を食べ終え、今日はこれで解散かなと思った矢先、彼は「この後どうする?」と言い出した。
どうするのだろう。夜は更けていく。
「お泊まりかなぁ。」
彼が笑いながらそう口にしたのを聞いて、ここで初めて、あぁ、彼にとって自分はありなのだなと気づく。ただの愚痴聞き役に留まらずに済むらしい。
ありがちな状況、ありがちな会話、ありがちな結末。予定調和な流れからはトキメキというものは育ちにくいのだということを、私はこれまでの経験から学んでいた。期待を膨らませる1番の方法は、根本から壊れたりはしない程度に、先っぽだけを優しく潰してあげることだ。
「明日朝早いんだよね〜。また今度あそぼ!」
そういって彼を駅まで見送る。
彼と別れ、歩いて帰宅していると、彼からLINEが届いた。
「今日はありがとう。なんか別れる時すごい寂しかった。」
失恋して2日目の人間が繰り出したとは思えないキュンワードである。
ありがとう、これまでの惨劇よ。
ありがとう、いまや愛しき悲しみたちよ。
ありがとう、今日までの絶望よ。
あなた達のおかげて、私は本日ついに、トキメキの精製術を習得しました。
私のこれまでの苦労は、無駄なんかじゃなかった。
後日、彼と鎌倉デートをした。彼は私に「遊びじゃないよ」と告げ、私たちは一夜を共にした。
3回目のデートは我が家でのおうちデート。私は少し、悩んでいた。
2回目のデートでの告白は早すぎると、彼は元カレナルシスト男について言及していた。なのに1回目のデートでお泊まりを持ちかけるのはありなのか?という疑問にはいったん目を瞑る。問題は、何回目ならいいのか?という点である。
彼は口では元カレナルシスト男について、「だってあいつ、『今日職場で着替えてたら、いい体ですね〜って声かけられたんだけど、俺狙われてんのかな?守ってね♡』とか言ってくんだよ。最初ネタで言ってんのかと思ったんだけどそうじゃないの。34にもなって本気でそんなこといってんの。どうすりゃよかったの?」などと盛大にディスってはいたが、「彼の住んでいた場所の近くには未だに近づけない...。彼とデートした場所にも行きたくない...。」などと未だ元カレナルシスト男への未練が充分に残っている様子も覗かせていた。そんな男何がいいのだろう...と思ってしまうのだが、当事者にしかわからない複雑な気持ちがあるのだろう。恋とはつくづく不思議なものである。
これらの状況から、3回目のデートで付き合い始めるのが定番、という定説を、私はいったん見送ることにした。彼はその日「来週またあえるよ」と言って、我が家を去った。
それが彼との最後のデートになった。
次にあうはずだった日の前日、こちらから確認の連絡をとってみると、彼は体調不良を理由にキャンセルを申し出てきた。そして、その後の連絡が断たれた。
今度こそ、うまくいくと思っていた。何が悪かったのか、どこで間違えたのか。考えても考えてもわからない。本当にどうにかなってしまいそうだった。
それから1ヶ月ほどたち、徐々に彼については忘れようとしていた頃、私は友達数人との会話を通して気分転換を図っていた。
その際、友達がこんなことを言い始めた。
「かっこいい人から出会い系アプリでいいねが来た。」
その画面を見せてもらった私は目を見開いた。
彼である。1ヶ月前に、突如私の前から姿を消した寺生まれの青年がそこに表示されていた。
思わず彼のプロフィールを見せてもらう。それを読んで私は再度目を疑うことになる。
「最近同棲はじめました!」
は?
なんだこれは。誰とだ。ナルシスト男とよりを戻したのか?あんなにボロクソ言っていたが、やはり未練があったのだろうか。それとも別の男と?早すぎやしないか...
そして、なぜこいつは私の友人にも出会い系アプリでいいねを送っているのだ。
私は友人にすべてを共有し、そしてこう依頼した。
「この人が出会い系アプリを使ってどんな相手を募集しているのかを尋ねて。」
友人は多少の困惑は見せたものの、素直に私からの依頼に従ってくれて、その旨のメッセージを送信。
するとすぐに返事が来る。
「友達とかセフレとかですねw」
このメッセージを確認し、私の中にある一つの考えが芽生えた。
そこから数日が経ったある日、私は久しぶりに寺生まれの彼にメッセージを送信した。
メッセージの内容は、突然連絡が返ってこなくなって悲しい、という自分を主語にしたシンプルな文章とした。相手を糾弾するのではなく、ただ自分が悲しいと訴える。その方が返事が貰える可能性は高い。
意外にも、彼からはすぐに返事が来た。「予期せぬ出会いがあって...彼氏が出来ました...最近同棲を始めました...」ということを申し訳なさそうに告げる文面だった。
予期せぬ出会いってなんだよ。逆にお前は今まで出会いを予期したことがあったのかよ、などとツッコミたくなるが、そこは堪え、私はメッセージを返信した。
「じゃあ割り切ってあわない?」
イソップ寓話に「酸っぱい葡萄」という話がある。キツネが高いところにある葡萄が欲しくて何度も飛び上がるが、どうしても手に入らない。そして最後に「あのブドウはどうせ酸っぱくて食えたもんじゃない」などと言ってその場を去る。手に入らないものをけなすことで、自尊心を保つ、負け惜しみの心理を表した話だとされている。
恋愛シーンにおいても、そのような光景はよく目にする。好きで好きでどうしようもない。けれども怖くて告白できない。そんな人間が最後に行き着く先が「あんなヤツもう好きじゃない!実はロクなヤツじゃない!」という負け惜しみだったりする。
手に入らないものの価値を知らないままで、それを否定する。そんな光景を見るたびに、せめて自分は、ちゃんと相手を知り尽くしてから諦めたいと思うようになった。
だから私は、葡萄の味を確かめにいく。
とある休日、外でのランチが、彼との久しぶりの再会だった。
正直よく来るよなと思ったが、彼は意外にもひょうひょうとした様子で、なんというか、まったく罪悪感を感じさせない振る舞いだった。
思わず私の方から尋ねる。
「ていうかどうなのよ?前の人とよりを戻したの?」
彼が答える。
「いいや、違うよ。新しい人と会ったの。」
マジか。なのに何故速攻でセフレなんぞ募集しているのだ。そのことを問おうかと思ったが、一気に警戒されかねないため、まずは自然に聞きたいことを確かめていく。
「マジで?同棲決めんの早すぎない?」
「...うーん。なんか気づいたらそういう流れになってたんだよね。」
知り合ったばかりの男と同棲をするという流れ。いくら流れが出来上がっていたとはいえ、それに乗るかどうかの選択権は自分にあるはずだ。いくらなんでも流されやすすぎるだろ。流木かよ。
「自分も家を出たかったんだよね。ちょうど相手も引っ越しをする必要があったみたいで、じゃあ一緒に住むのもありだねって向こうが言い出して、気付いたら、あれ?これ一緒に住むのかなって。」
思わず追加で質問する。
「付き合ったのが先なの?一緒に住むってなったのが先なの?」
すると、彼はか細い声でこう答える。
「...付き合うって正式に言ったかなぁ...。言ってないかも...。」
恋愛という局面において、「重い」ということは無条件で悪とされる。けれど、これが軽いということならば、私はきっと生涯軽やかな人間になんかなれやしない。
「...彼氏のこと好きなの?」
確信をついてみる。
「いやぁ...まぁ...けど仕事とかは頑張ってると思うよ。」
その言葉の中に、明確にその新しい彼氏を否定するワードは含まれていない。しかし彼は謎に「けど」と口にした。心の中にその対象に対して後ろめたい気持ちがある場合の特徴だ。
「...彼氏はかっこいいの?」
「......いや別にカッコ良くはないと思う。写真みる?」
彼が携帯で写真を探し始める。私は目の前の彼がどうやって彼氏を選んだのかが分からずに困惑している。なぜ、なぜ自分ではなくその人が選ばれたのか。
地下にある店内は電波が悪く、写真を見るための彼氏のSNSにアクセスがしにくいと言う。携帯の中に写真は入っていないのかと尋ねると、「うん。入ってないよ。ぜんぜん写真撮らないもん。撮る気がしない。前の彼氏の時は毎日撮ってたのに。」と笑いながら答えられる。私はどんどん、目の前の男の感情が分からなくなっていく。
「あ、あった。」
彼がそう言い、新しい彼氏とやらの姿が映った画面を見せてくる。
その瞬間、私はまたしても自分の目を疑った。この男の見せる写真は、いつもことごとく私を困惑の世界へといざなう。
そこには見知ったクソリプおじさんの姿が映し出されていた。
説明しよう。クソリプおじさんとは、TwitterなどのSNSにおいて、受け取った側がリアクションに困るようなリプライを送ってくるおじさんのことである。
分かりやすい例を一つあげてみよう。「友達とコーヒー飲んでるー!」とスタバのカップの写真を添付したツイートをしている若い子がいたとする。そのツイートに対し、「スタバ!」とだけリプライを飛ばすようなおじさんがこんな風に呼ばれる*1。どういう心理で積極的にそんなつまらないリプライばかりしているのかは理解に苦しむところであるが、相手に絡みたいという気持ちが先行してしまっているのかもしれない。自分スタバ知ってるよ!と、早押しクイズの回答者のような気分になっているということもあり得る。いずれにせよ、問題は会話能力の低さにあるのだろうが、ハートが強いことは間違いない。クソリプおじさんは簡単にはくじけず、懲りずに同じような行動を繰り返すという特徴を持つことも多い。
寺生まれ男の同棲相手兼新彼氏として携帯電話の画面に映る男は、知り合いの間でクソリプおじさんの称号を欲しいままにしている男だった。
彼は新宿2丁目のゲイバーで若い子に絡むのが特に好きで、頻繁に飲み歩いているということで評判だった。Twitterでゲイバーの店員の若い子が「遊びにきたー!」などと言いながら楽しいレジャーの写真を載せていたりすると、このクソリプおじさんはきまって「俺も行きたい!」とリプライを飛ばしていた。ほとんど無視されていたが、彼の士気が下がる様子は一切見て取れず、毎週のように楽しそうに飲みに出掛け、ゲイバーにお金を沢山落としてあげているようで、私はそのハートの強さと鈍感さに驚愕し、そして正直な所、そんな彼の姿を哀れだとも感じていた。しかし今、その哀れな男が、私の屍を超えていく。
自分はこの人に負けたのか...と思うと盛大に死にたくなってくる。その事実を認識すると、自分で気づいていないだけで、私もまた一人のクソリプおじさんなのかもしれない...という気持ちも湧き起こってくる。クソリプおじさんに敗戦したのだから、クソリプおじさん以下の存在、モアクソリプおじさん、それが私なのである...辛すぎる...。
寺生まれ男の携帯画面に写るクソリプおじさんの姿を見ながら、色々な想いが頭の中を駆け巡り、しばし呆然としてしまう。
私が固まっていると、寺生まれ男が「やっぱり、あんまカッコよくないよね...」と話しかけてくる。ここではじめて自らの無礼さに気づく。
あ、ごめんなさい...。いや、そういう問題だけじゃなくて、まぁ実はそれもあるんだけど、それだけじゃなくて......。もうなんていうか、私いまショックでショックで...ちょっと一人にしてもらえない?ってくらいの精神状態なわけで......
「もっと自分を大切にしなよ...」
思わずとんでもない言葉が口から出ていた。
葡萄の酸っぱさを確かめにきたはずなのに、自らの醜さばかりが突きつけられてくる。
しかし、呆然とはしていたが、私なりに頭がかろうじて回っていた部分だってある。こいつは付き合ったばかりなのに、セフレを募集しているのだ。しかも、表向きにはそれを隠している。純粋にクソリプおじさんを愛しているわけではない可能性が高い。なにか、なにか目的があるに違いない。私は何に負けたのか。その正体を、どうしても知りたい。
私からの大変不躾な言葉を浴びた寺生まれ男は、やっぱカッコ悪いのかぁ...とクソリプおじさんの写真と切なげに向き合っている。発言の真意はそこではないということを、伝えなければならない。
「違う。そうじゃない。俺実はその人のこと知ってるんだけど、その人さぁ...なんていうかさぁ...だいぶ若い子に絡むの好きだよね?で、ちょっと変わってるよね?」
言葉を選んで慎重に伝える。目の前の彼にクソリプおじさんがどう見えているのか、どうしても確かめたい。
「あぁ。うん。色コキおじさん*2って言われてるんでしょ。全部知ってる。友達にこの人の親友がいて、付き合う前に色々教えてもらったの。飲みに行くのが大好きだとか、若い子に色こいてばっかいるとか。その親友と海外旅行に行ったときに、夜に現地の男の子を買って部屋に帰ってきたらしく、親友が寝てる隣のベッドでヤッてたらしいよ笑 そういうことを全部知った上で付き合ってますから!」
何を言ってるんだ。受け入れ力が高すぎる。釈迦か?お前が釈迦なのか?お釈迦様に意思や好みはないのか?
ただでさえ疲弊しているので、脳みその情報処理が追いつかない。色コキおじさんという新しいワードまで飛び出してきてしまった。海外旅行のエピソードは聞いてるだけなら面白いが、その人と自分が付き合うとなったらどうだろうか。考えられない。クソリプおじさんもすごいが、それと付き合ったコイツもすごい。ついでに、そいつと付き合おうとしてたけどクソリプおじさんに完敗した私もすごい。登場人物がみんなアホに見えてくる。
「待って...お願い待って...。よくわかんない...よく分かんないんだけど...それでなんで付き合おうってなるの?それがブッダの教えなの...?」
私が教えを乞う。彼が答える。
「だって別にゲイバーとか行ってもらっても全然いいもん。こっちはこっちで勝手にやるからって感じ。けどなんか嫌になったらしいよ。なんか結局周りがお金目当てで自分に近づいてきてるって感じたらしくて、それで嫌になったって言ってた。その割に住む家の場所を決めるときは、新宿二丁目へのアクセスをやたらと気にしてたから、あいつ絶対また行くけどね。」
笑ってそう答えるブッダ様はお心が広く、ゲイバーに出向くことについては寛大らしい。
そんなことより、ハートの強さが最強と思っていたクソリプおじさんも傷ついていたのだというエピソードを聞いて、思わずしんみりしてしまう。自分に近づいてくる人間がみんなお金目当てだと自覚しながら、それでもそこに出向いてしまう。聞いているだけで気が滅入ってくる。まさか、ブッダ様は彼を救おうとしているのだろうか。寛大なその御心で、クソリプおじさんの魂を救済しようとなさっているのだろうか。
葡萄の甘さが口に広がりかける。
けれど、私はそんなのやっぱり認められない。
「新しい家は綺麗なの?」
話題をうつす。仮説を確かめるために。
「うん。すごく良いマンションだよ。場所も都内の良いところにあるし。」
そっかあ。間取りは?
「2LDKかな」
リビングとそれぞれの部屋?いいなぁ。
「いや、リビングと、相手の部屋と、二人の寝室...。」
ん...?それって家賃の支払いはどういう分担になってるの?
「自分が3分の1くらい払ってて、相手が残り、いや、光熱費も含んでるからもっとかな。」
なるほどー。それで部屋割りがそうなってるんだね。自分の部屋欲しいとか思わないの?
「うん。別になくても平気かな。自分わりと誰とでも住んだりって出来るんだと思う。それに相手は仕事とか勉強が忙しいらしくて、あんまり会うこともないしね。けど、ベッドは別がいいって言ったんだけど、気づいたら相手がクイーンのベッドを買ってて一緒にされてしまった...。でも可能な限りエッチは拒否してるようにしてて、今はそれでなんとかなってる。」
ん?んん?
エッチ...あんまりしたくないの...?
「...うん。だってやだもん。」
え...?
それでセフレ募集してるの?
「えー。してないよー?」
うそだー。してるでしょ?
「...表向きにはしてないよ。」
さっきからなんて素直な子なのだろう。これが寺での修行の成果なのだろうか。
「なんというか、貴方が本当にその相手の人のことを好きだとは、どうしても思えないんだけど...よく一緒に住めるよね...」
確信を突いてみる。
「だって、実家を出たかったんだもん。けど俺が毎月払ってる金額を考えると、別に一人暮らし出来るんだよなぁ。だからそこはミスったかもしれない。けどもう契約もしちゃったし。だから賃貸契約の更新サイクルの2年って決めてんの。それにまぁ自分1人じゃ、あんなにいい家住めないし。」
2年って...決めてる...?
2年経ったら別れるの...?はじめからそれを分かっていて、付き合うの...?これが諸行無常ということなの?
「ま、まってどういうこと?好きじゃないの?付き合ったばっかなのにもう?ていうかはじめから?なのに一緒に住めるの?なんで?そんなにいい家に住めるのが嬉しいの?けど自分の部屋ないんでしょ?...やっぱり、もっと自分を大切にした方がいいよ。」
思わず一気に捲し立ててしまう。けれど、本当に何が何だか理解できない。無我の境地のなせる技だというのか。
「だってさぁ、好きな人と付き合っても、前みたいにひどいこと言われて傷ついて終わるし。仮にまた好きな人ができて、付き合ったとしても、永遠には続かないじゃん。いつかは終わるじゃん。結婚するわけでもないんだし。」
それは前の相手が悪かっただけの話ではないの...?
「俺さぁ、本当に好きな人と付き合うとだめなんだよね。前の人がそうだったんだけど、自分がダメになるの。もうあんな目に会いたくないし。だからこの2年は成長の2年にする。自分を変える。」
は?何言ってんだコイツ...自分を変える...?好きでもない人と付き合って、成長する???
ていうか、元カレナルシスト男のこと、そんなに好きだったの?いったい何が?
「うん。なんか好きだった。どこが好きだったんだろうね。顔かなぁ。身体なのかな...?えーわかんない。けど見た目なのかなぁ...。」
今の彼の見た目は、好きじゃないの...?
「うん。だからエッチするのも可能な限り断るようにしてんの。」
じゃあ、なんで付き合ってんの...?
「...いい家に住めるからかなぁ。お金持ってるし。でもケチなんだよなぁ。だからそれはあんま意味ないかも。...ま、流れかな。」
笑いながら首を傾けてそう答える寺生まれの男。思わずこちらの背筋がゾクゾクしてしまっているのも、ブッダのパワーなのだろうか。
「最近ね、友達が結婚したんだ。ゲイなんだけどね。女と結婚した。」
話が変わった...のか?
「その人ずっとゲイだったんだけど、ていうか指向的にはまだゲイなんだけど、女と結婚して、子供もできたんだって。ちなみに、婚約した後に、なんかの拍子にゲイだって嫁にバレたけど、なんか受け入れられたらしいよ。」
は?なんかすごい話である。なにが始まったんだ。嫁やべぇ。受け入れるってなんだ。無理だろ普通。
「だよね。すごいよね。ゲイだってバレた時は自殺も考えたらしいよ。けど最終的には奥さんにすべてを受け入れてもらえたらしい。」
どういうことだ。何がどうなっているんだ。彼女こそ、真のお釈迦様なのではないだろうか。
「しかもゲイだってバレた後に子供作ったらしいからね。すごいよね。」
すごい。まったく気持ちは理解できないけどすごい。その奥さんにとっては、好きになってしまった相手が後からゲイだと分かって諦められなかったということなんだろうか。だとしたら辛いだろうな。
「その友達がね、言ったんだよ。『将来、誰かとずっと一緒にいるとして、おじさんと2人ってのは、いやだから。』って。」
え...。
「そんなこと言わないでよー。俺ら将来そうなるんだからーってその時は言ったんだけどね。最近、職場で衝撃的な言葉を聞いたの。31歳の後輩が、旅行で会社を休んだ時の話なんだけど、他の人たちが、『◯◯さん誰と旅行行ってるんだろうねー。男とかな?』って言ったの。そしたら別の女の人が『31にもなって男と行くわけないじゃない!ゲイじゃあるまいし気持ち悪い!』って言ったの。それを聞いて、あぁ、これが世間の声なんだなぁって...。ホテルの人たちもおじさん2人で泊まりにきたら変だって思うよねきっと。」
...。
「誰かと付き合ったって、結局それでどうなるの?どうせ愛は冷めるんだし、結婚だってできないんだし。おっさん2人が残されるだけじゃん。」
さっきから、なにも言えていない。
「そういうこともあるかもしれないけどさ、それでも、好きな人でずっと一緒にいて自分が楽しいって思える人が、いるかもしれないじゃん。それだけでもいいんじゃない?好きでもない人と付き合うよりは、ずっとマシでしょ?」
そのくらいの言葉を絞り出すのが精一杯だった。
「好きな人と付き合ったって、前みたいに辛い想いするだけだし。だったらいい家に住めるとか、そのくらいでいいんだよ。俺にとってこの2年は、成長の2年だし。」
経験した悲しみが、優しさを作る。
そんなに単純なことではなかった。
「ていうかさ、その自分を傷つけたっていう前の彼氏と、今自分が同じことをしてるってことになるんじゃない?」
経験が人を作る。それは間違ってはいないだろう。けれど、与えられた経験が同じでも、そこから何が生まれるのかは人によって大きく異なる。
「いや、俺は今の相手にはぜんぜんそういう感じは出してないから大丈夫だと思う。前の彼氏と付き合ってる時は、『好き好きー』ってもろに好き好きオーラ出しちゃってたんだけど、こっちの立場になって分かった。たしかにこの状態でもしもそんな風に言われたらだいぶきついだろうね。今のところ相手もそこまでではないからなんとか大丈夫だけど、そうじゃなくなったらきついかもなー。けどそれも含めて成長の2年だから。」
彼はそう言い残して、綺麗な家へと帰って行った。2年後、いったい彼がどのような成長を遂げるのかは、まだ誰も知らない。