犬笛日記

それは犬笛のような魂の叫び

ロマンスと金とおっさんずラブの話

上京してはじめて会社に入社したとき、そこにいた同期たちから趣味が海外旅行だと自己紹介されるのが嫌だった。

彼らは純粋な親切心からこう言う。

「海外旅行は素敵だよ。いろんな景色を見れて、多様性に触れられて、人生が豊かになるよ。お金?バイトとかで貯めるんだよ。それも良い経験だよ。」

 

バイド代どころか、借金をしたお金まですべて学費と生活費に充てていた私に、そんな余裕はなかった。彼らが高いお金を払って旅先まではるばる見に行くという、多様性というものの価値観の中に、私のような存在は含まれていないのだろうなと思った。

 

お給料がもらえるようになって、生活が落ちついて来た頃、家族からお金を無心されるようになった。実家でニートの兄が吸うタバコ代すら、私に出せと言われているような気がした。お金を貸してと言われるたびに、しぶしぶお金を差し出した。この家を救えるのは私しかいない。立派な社会人になれたんだから、私には家族を支える義務がある。そう思わなければいけない気がした。

 

奨学金を返しながらの生活。決して楽はできない。実家に貸した金額は、総額いくらになったのだろうか。そう尋ねたとき、家族は何も答えてはくれなかった。そんな金額、誰も数えてはいなかった。

 

 

私はすべての責任を放棄することに決めた。

 

自分の人生を生きるためには、強くあらなければならない。強いのってのは、悪いってことなのかもしれない。

 

何重ものセーフティネットに守られている人たちが、平気な顔で「家族は助け合うべき。家族を大切にしろ」という言葉を私に浴びせてきた。たとえ自分が倒れても、守ってくれるセーフティネットを持つ人だけが、美しい自己犠牲を語れるのだなと思った。正義感すら、金で買える。豊かな人だけが、良い人でいられる。

 

私にはセーフティネットが用意されてはいなかった*1。だから私は、ずっと自分で立っていられるように、少しでも強くなれるように日々を過ごしてここまで来た。

 

 

 

これから始まる物語は、私がはじめて出来た彼氏(セックスする直前に告白して付き合ってすぐに振られた)とお別れをしてから、わずか2週間後のできごとである。

 

 

 

出会い系アプリで知り合ったのは、10歳も年下のイケメンだった。
彼の方から『おっさんずラブ』の映画を見ましょうと誘いをくれた。
あらかじめ決めた待ち合わせ時間よりも、20分ほど早く、彼が映画のチケットを購入してくれたという連絡を受けた。

すごいなこの人。ドタキャンされるリスクとか考えずに、人に親切に出来る人なんだな。私が変な人だったらどうしようとか不安にならなかったのかな。

私が呑気に支度を整えている間に、待ち合わせ時間よりも早く来てチケットを購入してくれていたなんて...とこちらが恐縮しまくっていると、近くに住んでいるから大丈夫ですよとの返事をしてくれた。

ここは新宿歌舞伎町。こんな繁華街に一人で住んでいるの...?とおずおずと尋ねると、「いや、姉と一緒に住んでます。」との回答。

 

へー。職場が近いとかなんですか? と尋ねると、「姉は昼は看護師なんですけど、夜はこの辺のキャバクラで働いてるんですよ。自分の職場も近くて。」と教えてくれた。

 

おぉー...と一瞬の心の戸惑いが、リアクションになって外に出てしまうと、彼は追加で、こうも教えてくれた。

 

「自分たち母子家庭で、大学の学費も自分たちで稼がなきゃならなかったんです。お姉ちゃんはその時からキャバクラで働いてて、看護師の給料だけじゃ安いから今も働いてるんです。その時からずっとこの辺に住んでて。」

 

重い話をさらっと言われて、返答に詰まる。東京で姉弟二人きり、支え合いながらなんとか大学を卒業した姿を想像する。きっと大変な苦労をしたのだろう。こんな時になんて言葉を返したら良いのか、少し悩んで、「そうなんだぁ。頑張ったんだね。偉いね。」とだけ口にした。

 

 

私はあまり、自分が苦労した話を他人にできない。
ずっとお金に困っていたことも、家にニートの兄がいることも。本当に嫌なことは他人には言えなかった。それらを誰かに話した途端、自分自身に「かわいそうなひと」というレッテルが貼られて、私の他の部分が死んでしまう気がする。「何かが欠けた人」なんていう風に言われてしまうかもしれない。

 

だからずっと、好きになる相手は、自分とは反対のお金に苦労したことの無いような、留学なんて簡単にいけちゃうような、そんな人ばかりだった。実際、そういう人は、自分には無い前向きさを持っていることが多いような気がした。

 

 

目の前の彼を見る。この人は、誰かにレッテルを貼られるのが怖くはないのだろうか。

 

映画がはじまるのを待つ間に、ご飯を食べながら、彼が保育士であること、仕事は激務だが、残業代が満額支給されるため、世間で言われている保育士のイメージよりはお財布は潤っているということ、学生時代はお金のために店子(ゲイバーの店員)として働いていたが、もう水商売には戻りたくないと思っていることなどを教えてもらった。

 

若くてカッコいい彼は、ゲイバーでさぞチヤホヤされたことだろう。そういう人は、就職してからもその快感が忘れられずにまたそこで働こうとすると聞く。彼にはそういう気持ちがないのだろうか?と尋ねると、「嫌ですよ。好きでもない人からブランド物とかもらってもうれしくないし。てか売ってたし。もう戻りたくない。」などと、さらっとブランド物を貢がれたりしていたことなどを教えてくれた。顔が良い人って、そうやって稼げるのかぁ...とカルチャーショックのようなものを感じる。

 

新宿2丁目の人間関係は本当に面倒くさいのだと、彼はウンザリした顔で口にしていた。ゲイバーで開催される、店子のパースデーパーティなどのイベントでは、よそのお店の店員なども大勢訪れ、沢山の高級なお酒が注文される。高い物だと数十万円するらしい。それらの何割かが店子に歩合としてキャッシュバックされる。しかし、よそのお店の人間からお祝いを受けた場合は、その店のパーティーの際にお返しをするのが絶対的なマナーとして半強制されているらしい。ひどい場合は、同じ金額を要求される。それを店子個人が負担する。よって、店子個人単位で見た場合は赤字になる。店だけが儲かる。

 

すごいビジネスモデルである。裏経済の片鱗を見せられた気がする。どこにでも搾取があるのだなと思う。*2

 

 

「旅行は好き。けれどなるべく安く行きたい。値段の高い旅行はどうしても勿体無いと思ってしまう。形に残るもののほうにお金を使いたい。」自分の価値観をそう口にする彼を見ながら、あぁ、昔の自分と同じだなぁと感じた。資産が減ることが怖くて、色あせてしまったものを捨てることすら出来ずに、不安だけを抱えて生きていた頃の自分。目の前の彼に、その姿が重なる。

私が旅行を好きになったのは、ここ2〜3年の話で、ある程度貯金ができて、自分で自分の生活を保証できるようになってからだ。はじめて自分のお金で旅行した海外の景色は、空気って場所が変わるだけでこんなに違うものなんだぁということを教えてくれた。世の中つらいことも多いけど、最悪ほんとうに嫌になったら場所を変えればいいか。そう思えるだけで、肩の荷が少し降りた気がした。
いつからか、形に残らないものを充実させた方が、人生をより豊かに彩ることができるはずだなどと、昔されるのが嫌だったはずの話を平気でするようになっていた自分に気づく。

10歳年下の彼が、これから先の、自分で自分を支えられるようになってからの人生の中で、充実した想い出をたくさん作っていけることを心から願う。私にできるのはたぶんそれだけだ。

 

 

映画館に到着し横並びに触る。上映が開始する直前、いつものノーモア映画泥棒のCMが流れているとき、私の右手に、彼の左手が触れてきた。そのまま二人の間にあるポップコーンとコーラの下のところまで手を導かれて、指と指の間に彼の指が差し込まれる。コーラが汗をかいて、二人の指の間に水が滴る。どの汗がコーラのもので、私のもので、彼のものかがわからない。

そのまま映画がはじまる。劇場版おっさんずラブ。マジか。もはやどっちがスクリーンなのか分からない。多分、こっちの方が面白い。

 

右手に全神経を集中しているせいで、映画の内容がぜんぜん頭に入ってこない。
唯一覚えているのは、スクリーンの中で大塚寧々演じる部長の元妻が、新入社員の男に言い寄られながら戸惑っているシーンだ。
「ダメよ。私たち何歳離れてると思ってるのよ。今はいいかもしれないけれど、愛が冷めたらどうするのよ。」

 

だよな。おっしゃる通りだ。割り切りって大事だ。10歳年下のイケメンから手を握られながら映画を鑑賞しているこの状況を良い思い出にしよう。

 

 

映画がフィナーレを迎え、映画館を後にする。それでも現実版おっさんずラブは動き続ける。手を握っていた二人はどこへと向かうのだろう。
彼はいつも、私の少しだけ前を歩いてくれる。私は10歳も年上なのに、それにいそいそとついていく。情けないけどありがたい。あぁ、自分は、いつも少しだけ前を歩いてくれる人が好きなんだなぁと気づく。

 

彼は当たり前のように、ホテル街へと足を進め、そのまま2人でホテルへと突入した。年下の彼の方がかなり手馴れているのがなんだか面白い。

 

たたみの上で、彼に押し倒される。目の前に彼の顔がある。なのに、すぐ目の前にいるのに、聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声で、彼が何かをしゃべっている。

 

 

「......今日出逢って........つきあうって......早すぎるかなぁ...?」

 

え?

 

ムードをぶっ壊すような間抜けな声が自分の口から飛び出る。

 

 

「...付き合おう?」

 

 

下には畳。上には彼。上から確かにそう聞こえる。え?なんで?まって。理解が追いつかない。仮に、彼がすごくモテないor私がすごくモテる ということであればこういう現象も起こりうるのであろう。だがしかし、今回のケースではそれは成り立たない。今ここに何が起こっているというのだ。

 

あぁでもこういう時に「なんで?」って聞くのは違う気がする。「何か別の目的があるの?」と一番気になることを聞くのはもっと違う。

 

「...俺でいいの?結構年上だよ...?」

 

「うん。●●(俺の名前)がいいの。」

 

すごく不安そうな顔だけれども、確かにそう言っている。

 

2週間前の自分の姿がそこに重なる。やる直前に告白して、相手の性欲を利用して付き合って、でも結局ぜんぜん愛されてなんてなくて...。

 

あのとき思ったのである。次はちゃんと自分を好きになってくれる人と付き合おうと。
だが今、私は彼のことをちゃんと好きなんだろうか。
正直いって分からない。確かにイケメンだけれども、苦労して自分の力で大学を卒業したのは偉いと思うけれども。保育士の仕事を真面目にこなしているところも、前を歩いてくれるところも、映画のチケットを取ってくれたところも、ポップコーンを自然と席まで運んでくれるところも、絶対にきっちり割り勘でお会計をしようとしてくるところも、良いところはたくさんあるんだけれど。まだまだ何も分からないよ。


付き合うなんて簡単に言っていいんだろうか。あぁ、2週間前に私に告白された彼も、こんな気持ちだったのかな。我ながら学びが早いなぁ。

 

 

いつまでも待たせるわけにはいかない。やはり、断る理由は見当たらない。それに、この人だったら私の抱えている辛さを分かってくれるのかもしれない。

 

「はい。お願いします。」

 

彼氏いない歴わずか2週間。なんだか人気物件みたいである。まぁ前の住人は住んで速攻出ていってしまったんだけどね。

 

 

彼はとにかく愛情表現が多い。イタリア人なのかってくらい「好きだよ」と言ってきてくれる。変なプライドとかがないのかもしれない。私はそのたびに「俺もだよ」と返答する。それが礼儀というものであろう。

 

ご飯を食べながら話していると不意に「好きだよ」と言われ、帰宅後にもLINEで「大好きです。」などと急に言われる。すごい。私はそのたびに、この世に自分のことをこんなに好きな人がいるんだという事実にただただ胸が踊る。

 

付き合った瞬間は、果たして自分は彼のことを好きになれるんだろうか...などと生意気なことを考えていた私であるが、一週間ほどたつとすっかりラブラブパカップルモードに突入していた。自分を好きだと言ってくれる相手のことはやはり好きになる。好意の返報性というやつだ。我ながら実にチョロい。

 

得ることのできなかった青春を取り戻すかのように、アホみたいに好きだ好きだと言い合う日々。彼は保育園の話をいつも詳細に聞かせてくれた。

どんな先生がいて、どんな子供がいて、保育の仕事だけじゃなくて書類仕事が色々と大変で、保護者からこんなものをもらったりして、保育園には早朝保育や延長保育、お泊まり保育もあったりするんだよ。そんな風にして彼は1日の出来事を子供のように毎日私に報告してくれて、私はそれをうんうんとうなづきながら聞いていた。

 

好きな人に愛されているというこれ以上ない幸せな日々。その味を彼が教えてくれた。

 

シフトの関係で、この2週間は特に忙しいと彼が言っていた時期があった。6連勤が2週間連続で続き、1日ある休みも夜勤の次の日というもはやそれは休みなのかと思えるような過酷なシフトだった。早朝保育や延長保育の関係で、朝の7時から夜の22時まで保育園にいなければならない、そんな日が2連続であったりする。普通のデスクワークしかしたことのない私は、それがどれだけ過酷なことなのか想像することしかできなかった。

 

その2週間さえ終われば、少し落ち着けるからたくさん逢えるよ。それを楽しみに頑張るよ。そう話しながら、彼は仕事へと向かった。

大変忙しい時期だったようで、その時期は連絡も途絶えがちになった。まぁ忙しいのだろう。お互い仕事に集中しよう。

 

忙しい2週間の最終日、私とのデートの約束を前日に控えた朝、彼にLINEを送った。
「2週間本当にお疲れ様。明日ついに逢えるね。楽しみだね。」

 

 

その日の午後、彼から返事が来た。

 

 

「実は今、体調崩して仕事休んでるの。」

 

 

 

こんな時、私は何をすべきだろうか。逆の立場だったら、どうしてほしいだろうか。

 

仕事を早く切り上げて急いで彼に連絡をとる。

 

電話口の彼は、とても憔悴していて、口調が疲れ切っていた。何もする気がでないと口にしていて、食事もろくにとっていないようだった。夜もちゃんと眠れていないらしい。

 

何が、何があったというのだ。

 

疲れ切っている彼が教えてくれた、ぐちゃぐちゃな情報を整理すると、次のような事態となっているらしかった。

 

保育園の経営状態が悪化し、今月から急に給与体系が変わることになった。今までは残業代が青天井で支給されていたのが、今月から見込み残業制に変更となり、残業時間が給与に反映されない固定給となった。結果、彼の手取りはこれまでと比較して十数万円の減額となった。保育園側は、これについてこれない人は辞めてもらって結構と言っているらしく、職員は大量離職。
その保育園はグループ経営を行なっているらしく、大量離職に対応して、よその保育園から職員が突然数名異動してきたらしい。そして、彼は担任を降ろされた。

 

「給与明細を見た瞬間、すべてのやる気がなくなった。」「これまで一生懸命やってきたのに、この仕打ちはなんなんだろう。」彼は呟くようにそんなことを口にした。*3

 

 

私は彼に、何をしてあげたらいいのか。

 

そばにいてあげたかったが、家から出る気力がないのだという。お姉さんと同居しているからと、私は彼の家にはいけなかった。

 

せめて、せめて何か言葉をかけてあげないと。

 

大丈夫。なんとかなるよ。つらかったら逃げちゃいなよ。仕事なんでいくらでもあるよ。

頭の中を、色んな言葉が駆け巡る。
心から辛い想いをしている人に、それらの言葉はどう聞こえるだろうか。繰り返し考えるけれど、すべてが無責任で薄っぺらいものでしかないのではないかという不安に襲われる。

 

もっと内容があって、彼を救えて、無責任ではない言葉。そんな魔法の言葉を探し続けるけれど、私の口から出せたのは、「今までがんばった分少しくらい休んでも大丈夫だよ。少し休んで、ゆっくり考えよう。」という、結論を先延ばしにする言葉だけだった。

 

翌日、彼から仕事を辞めたとの連絡を受けた。
これからどうしようという不安に加え、自分は責任感がないのではないかと、彼は自分を責めるようなことを口にした。

 

辛いことからは逃げた方がいいと、私は心から思っている。けれどそれは、逃げ方を知っている側の、セーフティネットに守られて快適に過ごしている側の意見なんじゃないのかなとも思えてくる。

 

「今はいったん自分のことだけ考えていいんだよ。ボランティアで生きてるわけじゃないんだから。今は何も考えずに休もうよ。」

 

だから私は、そんな言葉しか言えない。

 

彼はずっと、憔悴しきっているような様子だったので、病院に言った方がいいのではないかと伝えたが、病院にいくのはどうしても嫌だといって譲ってくれなかった。

 

 

その4日後、彼からの不在着信に気づく。急いで掛け直すが彼は出ない。

数日間、彼は連絡が取れたり取れなかったりを繰り返していた。精神が安定していないのだろうなと思った。看護師のお姉さんと同居しているということなので、最悪な自体は防げるだろうか、それでもとても心配だった。

 

自分にできることはなんだろうかと考え続ける。

自分が一番してほしいことをしよう。

 

「大丈夫?俺は何があっても●●(彼氏の名前)の味方だよ。学生時代から自分で学費も稼いで立派に卒業するなんて、なかなかできることじゃないよ。それが出来た●●ならきっと大丈夫。まずはゆっくり休んで。俺に出来ることがあったらいつでも相談してね。」

 

 

これが自分に出来る唯一の、精一杯の行動だった。

 

 

少したって彼から返事が来た。

 

 

「本当にありがとう^ ^」

 

 

よかった。少しは元気になってもらえたかもしれない。

 

 

その後、少し遅れてさらにLINEが到着した。

 

 

 

「お願いがあるんだけど...」

 

 

 

なんだろう。彼にそう返事をしようとすると、彼の方から着信が来た。

 

 

「実は今月、支払いがやばくて...」

 

 

え?

まって。今月は、残業代が出なかったとはいえ、給料は普通に出るんでしょ?何がそんなにやばいの...?何買ったの...?

 

 

「家賃、3ヶ月分払わなきゃいけなくて...」

 

 

は?

 

 

「姉貴に家賃預けてたんだけど、ちゃんと払ってなかった。姉貴ニートだった。」

 

 

パニック。何を言っているのだ。情報を、とにかく情報をちゃんと整理したい。

 

なにそれ...いつわかったの...?

 

 

「昨日」

 

 

なんだそれは。何が起こっているのだ。

姉弟仲良く、苦しい中で支え合って、無事に大学を卒業した。そんないい話像で膨らんでいた彼らの姿が、頭の中で一気に姿を変えていく。

 

 

「僕の名義だから、結構やばくて。」

 

 

まじかよ。なぜよりによって...。だったら姉に預けず最後は自分で払うようにしとこうよ...。
そんな言葉が頭の中を駆け巡るが、今そんなことを言っても仕方がない。
人を疑えだなんて、誰だって口に出して言いたくはない。

 

しかし、私は今までずっと、一人で生きていくために、最低限の生活保証は自分で責任を取れるように振舞って来たという自負がある。そのために努力だってした。辛い経験もたくさんあった。罪悪感に耐えながら、自分を守り続けてきた。

だから、どうしても、どうしても、あなたもそのくらい気をつけときなよ...という考えが頭をかすめてしまう。これは、強者の理論なのだろうか。

 

それと同時に、これは本当にすべて真実なのだろうかという疑いの気持ちも湧き上がってきてしまう。

 

相手は10歳も年下のイケメンで、あってすぐ付き合って、やたらと愛を囁かれて、付き合った直後に職場の問題で仕事をやめて、そのすぐ直後に家族に裏切られて金が必要になる。

客観的に見たら、よく聞く詐欺ではないだろうか。

そもそも付き合ってまだ3週間である。そんな相手に金を要求するというのは、どうなんだろうか。

あぁでも逆に何週間だったらいいんだろう。ここでこんなことにこだわっている自分はただのケチなクソ野郎なんだろうか。

 

ダメだ。分からない。こんな状態で無責任な判断を下したくない。

 

「ごめん...俺には何もしてあげられない...。とりあえずまずはお姉さんに責任を取ってもらうように動いたほうがいいと思う。難しければお母さんにも入ってもらって解決方法を探るしかないと思う...。」

 

我ながらずるい。いい人ぶって逃げている。
それでも今お金を払うとは言えない。変な期待を持たせるわけにもいかない。

 

彼からの返答は、私の罪悪感をさらに膨らませてくるものだった。

 

「お姉ちゃんに解決してもらえって言われても、お姉ちゃんニートで金ないから無理なんだよ!親にも連絡とれるような状況じゃないの!!!」

 

怒鳴られるようにそう言われてしまう。

 

お金を渡した方が、たぶんすぐ楽になれる。3ヶ月分の家賃。そのくらいの貯金ならある。私が自分のために用意したセーフティネット。心の余裕を保つための処方箋。罪悪感と引き換えに得ていた安全な場所に、新しい罪悪感がさらに注がれていく。耐えきれない心を楽にしてあげたいという誘惑に駆られる。

 

でも、そんな風にして支えた関係が、これから大事にしたいと思えるものになるんだろうか。

 

ごめんなさいとひたすら謝って、その日の連絡は終わった。

 

自分を守れば守るほど、罪悪感だけが増していく。

 

 

 

翌日の早朝も彼から電話があった。

彼は電話口で「死にたい」と口にした。「●●(俺の名前)もお金の話聞いてくれなかったし。」彼はたしかにそう言った。私はごめんを繰り返すしかなかった。頑張れという言葉をかけるのは、無責任なのではないかと怖くて出来なかった。

 

 

その日私は友人と会う予定があり、その友人にすべての話を聞いてもらった。
あまりの話の超展開に、私ですらこれが本当に現実なのかと疑いたい気持ちだったが、友人は大変親身になって聞いてくれて、自分の考えをを口にしてくれた。

これが詐欺だろうと詐欺じゃなかろうと、お金は払わないで正解。

そもそも付き合って3週間で、お金の話をされた時点で自分ならかなり残念に感じてしまう、 次何かあったら彼にそれを伝えるしかないのではないか、というのが友人の結論だった。

 

そんな話をしていると、タイムリーに彼からLINEが届いた。

 

「色々動いているけど、やっぱりどうにもならないんだ。なんとかお願いできないかな。」

 

もうダメだ。耐えられない。

友人に支えてもらいながら、もしかしたら最後になるかもしれないメールを彼に送信する。

 

 

「ごめん。やっぱり俺には何も出来ない。正直、そういう話をされるのも辛かった。もしも俺だったら好きな人だからこそ、出逢ってすぐにそういう話はしないと思う。その部分の考え方が違って、嫌われてしまうんだったら、それはもうしょうがないことだと思う。」

 

 

彼のことを見捨てる。短い間だったけど、毎日のようにお互い好きだと言い合っていた相手を、私は切り捨てる。他になす術が思いつかない。出逢ったことすら、間違いだったのだろうか。どうか詐欺であってほしい。愛されたという記憶と引き換えに、この罪悪感を消し去ってほしい。

 

 

 

彼からの返信は翌日だった。

 

 

「お願いします。僕だったら好きな人だからこそ頼めるし。逆の立場でもしてる。おねがいわかって。すごい困ってる。」

 

 

随分グイグイくるようになっている...。詐欺だとしたら、もう少しうまくやる気がして、絶望が増していくのを感じる。
それに正直、彼はこんなに設定の凝った詐欺ができるほど、器用ではないと思う。裏に誰かいるという可能性もなくはないが、それでも彼から聞かされていた保育園の話は無駄にディティールが凝っており、矛盾も見当たらなかった。

 

 

詐欺じゃないとしたら余計つらい。だが私にはもう何もできない。それに、彼のリアクションが、私の中にあった愛情をどんどん奪っていく。罪悪感だけを残して。

 

 

私はもう、そのLINEに返事をする気力を失ってしまっていた。

 

 

後日、彼から着信があった。罪悪感が、私に受話器を握らせた。

 

「......なんで返事くれなかったの?ブロックされたと思ったよ...。」

 

ごめん。

 

「ていうかさ、お姉さんに責任とってもらえとか、親に連絡とれとか言うけどさ、そんなこと言われる筋合いないし!!」

 

え?

 

「なんであなたからそんなことを言われなきゃならないの?そういう風に上から目線で言うのやめた方がいいよ。あなたがこれから生きていく上でね、そういうのはやめた方がいい。」

 

私の呼び方は、「あなた」に変わっていた。それが終わりを象徴しているかのようだった。

 

ごめん...。だって、知らなかったから。出逢って3週間でお金を要求されるのは正直きつかったし、それに、●●(彼の名前)はもう憔悴していて、誰かに相談とかもちゃんと出来てないと思ってたから...。

 

「だからもうそういうくちごたえがいらない!!!だって結局あなた何も出来なかったでしょ?まぁそれは考え方の違いもあるかもだけどさ。俺なら付き合ってたらお金だすけど、あなたは出さないんでしょ。」

 

 

うん...ごめん...。

 

「別に謝ってほしいわけじゃないから!!!とにかく上から目線で指示とか出してこられるのがすごい嫌だ!!!」

 

そうか...。気づけなくてごめん...。一人で判断するよりも、誰かの意見があった方がいいのかと思って、お母さんに相談してみたらって言ったんだけど、それが迷惑だったんだね。それはもう考え方の違いだね。

 

「考え方とかじゃなくて!!一般論としてそうだから!!!!」

 

激昂する彼の言葉を浴びながら、自分の心のシャッターが降りていく音が聞こえる。

 

あぁ、この人は、自分の意見が絶対正義の一般論だと思ってしまう人なのか。
そう言う人とは、絶対に、分かり合えない。
議論をすることもできない。
私はいつもそうやって諦めてしまう。

でも実は、そんなこと、初めから気づいていた。私にとって彼は、議論を交える対象ではなかった。

私は結局彼のことを、最初から見下していたのである。自分が一番貼られたくないと思っていたはずの「かわいそうな人」というレッテルを無意識のうちに彼に貼りつけて、自分を脅かさない存在としての彼を愛でることで悦に浸っていた。そんな相手と付き合ってしまっていたことが、私の罪なのかもしれない。

 

謝ることも、意見をいうことも禁じられてしまったので、黙って彼のサンドバッグになることしかできない。

彼はその後、同じ内容のことを3回くらい繰り返し言い続けてもなお、激昂している。

 

一番辛いのは彼だと思う。
不遇な環境が、彼を追い詰めて、こんな風にしてしまった。

彼と私の差はなんだったのだろうかと考える。

 

 

出逢った当初、彼はゲイの友達が100人くらいいると言っていた。
そのうち本当の友達は何人いるの?と尋ねると、「えー。わかんない。」とだけ答えていた。

お金が欲しいと言われた時、その人たちに頼んでくれよとも正直思った。私よりもずっと付き合いの長い友達が、100人もいるのであれば。

 

 

でも、今の彼の姿をみて、理不尽な激昂を受け止めてくれる人すら、私以外にいないのだろうなと思った。

 

 

私は今まで強い信念を持って、職業選択をしてきたわけではない。
なんとなく、いろんな偶然が重なって、今の仕事にありついている。それが運良く、少し給料がいいと言われる業界だっただけだ。
もしも自分が、幼い頃から子供が好きで、保育の仕事に興味を持っていたら、今頃余裕を失って、彼のようになっていたのかもしれない。

 

 

彼を見捨てるということは、なっていたかもしれない自分を見捨てるということだ。運の悪かった自分が、世の中から見捨てられる姿を想像する。

本当に詐欺であって欲しかった。けれど、このやりとりの中で、そうではないと確信してしまった。もしも本当に詐欺なら、もう少しうまくやるだろう。多少はお金を払いたくなるような気分にさせてくれただろう。

 

 

彼は、いったん言いたいことを言いつくしたのか、沈黙している。

謝罪も反論も禁止された私は、最後の言葉だけを簡潔に送る。

 

「色々ごめんね。じゃあもう無理だね。さようなら。」

 

 

それだけ告げて、電話を切る。

 

彼から着信があるが、無視してブロックして、すべてを終わらせる。

ごめんね。でも俺ももう限界だよ。

 

 

好きだ好きだと言い合っていたのに、最後はこのザマで、残ったのは強烈な罪悪感だけである。美しい自己犠牲も、勇まし正義感も、私の中にはもう残っていないのだなと思った。私は何を守っているのだろう。

 

 

 

ということで、2回連続で速攻住人に出て行かれた名誉事故物件の名を欲しいままにしている犬笛さんを、いい加減誰かもらってあげてください。

*1:そりゃ生活保護とかはありますが。

*2:必ずしもすべてのお店でそういうことが行われているわけではない。(と信じたい。)少なくとも彼の置かれた環境はそうだったようだ。

*3:彼の話を聞く限り、おそらく前の月に全体に周知がされ、職員の大量離職へとつながっている。彼はその時話をちゃんと聞いていなかった(または向き合っていなかった)ものと予想される。