犬笛日記

それは犬笛のような魂の叫び

リアルからの脱出ゲーム

憧れのコンサル企業への転職を果たした友人が、同僚が急に「それは良いファインディングだね」などと言い出したので反射的に「ニモ?」って言ってみたところ、はぁ???みたいな顔をされてしまったと嘆いていた。その後さらに「文書をクリスタライズする」などと言われたらしく、「もう笑っちゃったんだけど。絶対みんな言いたいだけだよ。」とぼやいていた。

 

簡単に言える言葉をあえて難しく表現したがる人間、横文字や専門用語を多様する人間というのは、しばしば嘲笑の的となる。それでも一向にそういう人が減らないのは、きっと自分では気づいていないからなのだろうなと思う。

 

新入社員の頃の私は、昼食のことをランチと呼ぶことにすら抵抗があった。優先度と言えばいいのに、プライオリティとか言い出す人間を、なんだこいつはと思っていた。それなのに、そういう人たちに囲まれて働いているうちに、いつしか、「あぁ、この人には合意できましたっていうよりも、コンセンサスが取れましたって言った方が伝わりやすいんだな」とか、「会議を開く際にはアジェンダを明確にしろ、とか言われるから、ここは目次よりもアジェンダって言っとこう」などと、徐々に横文字を使うことに慣れていく自分がいた。

 

ゲイの世界に初めて足を踏み入れて間もなく、出会い系アプリでメールをやりとりしていた相手から突然「リアルしましょう」と言われた時も、私はかなり戸惑った。

出会い系アプリやSNSで知り合った人間とはじめて対面することを「リアル」と呼ぶのは、ゲイの世界ではもはや常識なのだが、いかんせん29歳で初めてその世界に足を踏み入れた私にとってそれは全然意味のわからない言葉で、「リアルするって何?これは最近の若者言葉なの?それともゲイ特有の言葉なの?でもそもそもリアルって現実空間って意味だから、インターネット用語なのかな。ていうか名詞+するっておかしくない?あぁでもご飯するとか言うか...。お茶するとも言うしな...。」と誰に聞けばいいのかも分からず一人で頭を抱えたものだった。

 

なんだか若者言葉っぽいこの言葉を使うことに、はじめはとても抵抗があり、「リアルしましょう」などと言われるたびに、「はい。会いましょう」となぜかいちいち翻訳をするなどして、その言葉を口にすることを極力避けていた。

 

それが、徐々に時間をかけて、自分と同じくらいの年代の人やそれ以上の人たちも、平気でリアルリアル言っているのを聞いたりしているうちに、いつしかその抵抗はなくなっていった。


日常生活を過ごす上で、自分と同じようなゲイの人間に出会うことのできない私たちにとって、リアルは新しいコミュニティを授けてくれる貴重なイベントで、友情や恋愛のきっかけとなる大切なものだ。デートというとハードルが高いし、面会や謁見などというとどうしても堅苦しい。やはりリアルはリアルなのだ。

 

ちなみに、ゲイの人間に好きなタイプを聞くと一定の割合で得られる答えに、「ゲイの世界に染まっていない人」という回答がある。こういう言葉の裏に、自分は染まってはいないという自意識が透けて見えるわけであるが、私の知る限り、そういう人間でもかなりの高い確率で「リアルする」という言葉は平気で使う。そういうのは染まっているという範疇には入らないのかなと、時々不思議に思う。私個人としては、社会を生きていく以上、ある程度その場所に馴染んでしまうのは仕方のないことなのだろうなと思う。その上で、自分を持っている人に出会いたいなと感じている。

 

出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと

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ある週末に向けて、私は突然のモテ期に襲われていた。
3名の男性から、リアルしませんかとのお誘いを一斉に受けていたのだ。日曜日は友達に誘われてリアル脱出ゲームとやらに参加することになっていたため、私は土曜日に会う1名を決める必要があった。いろんな意味でリアルづくしの週末である。

 

私は迷わず、ある一人の男性を選択した。


彼は私より少し年上の34歳で、背が高くがっしりとした体格でずっと競技ラグビーをしているということをやりとりを通して知った。出会い系アプリでは仕事の関係上顔写真は公開していないということだったが、要求してみたところすぐに五郎丸似のイケメンの顔写真が送付されてきて、私は大変興奮した。私も彼のルーティーンに組み込まれたい...!

 

五郎丸からは平日の昼間にも突然、「犬笛くん、会おうや。」などというぶっきらぼうなメールが送られてくるなどしており、この出会いにかなり積極的な様子が伺えた。

 

普段の私は、スマートでコミュニケーションの上手な器用な男性に惹かれる傾向があり、ぶっきらぼうな相手には極力合わないようにしている。だが、今回ばかりはいかんせん相手が五郎丸なので、私は謎のポジティブ思考を身につけていた。

この人絶対、気は優しくて力持ちなタイプだ...!ずっとラグビーばっかやってたからほんの少しだけ口下手で、恋愛にはちょっと不器用なところもあるけれど、記念日にはきっと山で積んだ花をプレゼントしてくれるドワーフのような心の綺麗な人なんだ...!

 

その後さらに五郎丸が二子玉川に住んでいるということが判明し、私の熱狂はますます加速した。ぶっきらぼうなドワーフのくせになんてオシャレなんだ!都市と自然が調和する街!森までもが私たちを祝福してくれそうな気がする!

 

そしてなんとあろうことか五郎丸は私を家に遊びに来ないかと誘ってきた。山小屋で繰り広げられるであろうタッチダウンの応酬に、私どうなっちゃうのかしら!!大変興奮しながら約束の土曜日を迎えた。

 

 

当日となり、五郎丸に「二子玉川駅に行けばいいですか?」と聞いたところ、「今日は祐天寺なんだ」という意味不明な返事が返ってきた。「え?引っ越したの?(笑) じゃあ祐天寺の駅にいけばいいの?」と訪ねたところ、「よかよ。」と引っ越しの件は完全に無視された上で、なぜか急に鹿児島弁となったぶっきらぼうな回答を得た。

 

なにせぶっきらぼうで不器用な人だからな。一途な九州男児なのだ。ラグビーのことで頭がいっぱいなのだろう。一度に二つも同時に質問をした私が悪い。これ以上質問したら競技にも影響がでちゃうかもしれない。うん。別に祐天寺でもぜんぜんいいじゃん。オシャレな街に変わりはないわけだし。よか!よかよ!!

 

 

祐天寺駅に到着し、改札を出て彼に連絡をし、彼のプロフィールやこれまで話した内容を復習しておくために、私は改めて出会い系アプリを開いた。

 

 

そこで私は自分の目を疑った。

 

 

34歳だった五郎丸のプロフィールが、なぜか突然119歳に変更されたのである。

 

 

 

え?なに?何が起こったの??もしかしてわたし今、八十五年の時を超えたの?え?そんなことある?いやないでしょ。浦島太郎じゃん。なに?もしかして世界線変わった?*1

 

混乱の渦に飲み込まれながら、何度も携帯の画面をスクロールしてアプリの表示を更新する。これはバグだ。アプリのバグだ。いきなり時が八十五年も過ぎるはずがない。戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ...戻ってこいよぉ!!!!!

 

心肺蘇生を試みる救命病棟のようなテンションで、何度画面を引き下げても34歳には戻らない119歳の表示を凝視し続けていると、突然、足元に人影が見えた。

 

ゆっくりと顔を上げてみると、目の前には知らないおじさんがいた。なんか田舎の農協でもらえそうなキャップを被っており、ぷくぷくと太っている。キャップからはみ出して見える髪の毛は、水分、というよりも油分を多く含んでいるように見える。この人が行ってきた竜宮城は油のなかにあったのだろうか。

 

 

え?だれ?

 

 

「どうも〜お待たせしましたぁ〜ヌフフフ。」

 

 

 

は?いや、待ってねぇし。私が待ってるの五郎丸だし。つーか五郎丸おせぇ。どこ行っちゃったんだろう。

 

......。

 

いやいやいやいや嘘でしょう。八十五年たったって五郎丸はこうはならないでしょ。いや流石に八十五年たってるようには見えないんだけど。年数だけでいったらたぶん十年くらいなんだけど。ていうか待って。もはや年数の問題じゃない。いや年数もそれはそれで問題なんだけど。本件はそんな単純な事例ではなくて、もっとこう、複雑な事情が絡み合っていて。なんていうかほら、面影すらないっていうか。指名手配犯でもそんなに跡形もなく顔を変えることなんてできないでしょっていうか...ってもうどっから突っ込めばいいの!?なんなの!?!?殺す気!!?!??

 

 

頭の中で半狂乱になっていると、目の前のおじさんが「おなか減ってますかぁ?ンフフフ」と口を開いてきた。この人は何かを喋る時、なぜか必ず半笑いだ。

 

 

ここは五郎丸が八十五郎丸へと変貌を遂げてしまった世界線。私はなんとしてでもこの世界線を脱出するゲートを見つけなければならない。ヒントは私のこれまでの経験の中に隠されているはずだ。死に物狂いで記憶を遡り、私はとある友人の言葉を思い出していた。

 

「待ち合わせ場所に現れたリアル相手がダメそうだった時にはなるべくカフェに行くようにしてるよ。時間的にも金銭的にも、それが一番被害額が少ないからね。カフェから出る時が勝負だよ。心を無にして、じゃあ今日はこれでっていって帰るの。」

 

これだ!!!!!!

 

 

「えーっと!お腹、やや減ってます!なんか、小腹?空いたかも?みたいな??」

 

本当は昼食を食べたばかりで満腹中枢も大活躍中だったのだが、そんなことは御構い無しに全身全霊で一筋の蜘蛛の糸を掴む。

 

「じゃあアイス屋いきませんかぁ〜?近くにすごく美味しいアイス屋があって〜ンフンフ。自分ほんとそこのアイスが大好きなんですよ〜ヌォンフ。そんなこと言って財布家に置いてきちゃってるんですけどねwゥフゥフ あぁでもSuicaで払うんで〜ムフフフフ」

 

 

アイス屋か...。サーティーワンアイスクリームのようなお持ち帰りスタイルの可能性が高いが、それだとすぐに家に向かうことになってしまうかもしれない。だが、今はとりあえず考える時間が欲しい。いったんそのアイス屋へと向かおう。

 

「ほんとそこのアイスが好きで〜ンフンフ。ほんと美味しいんですよ〜ゥォゥフ。ていうかもう3日連続で行っちゃってるんですよ〜ゴホホホ。顔とか覚えられてるかもしれないんですよね〜ヌォホホホホ。」

 

そうなんですかぁ。と自分でもビックリするくらい冷たい相槌しかすることができなかった。戦争体験をヒアリングするジャーナリストのような声の温度感である。現役のラグビー競技者が3日連続でアイスクリーム屋に出向くんだろうか...そもそもコイツの身体つきは、硬いスポーツマンというよりも柔らかいデブにしか見えない...と自分の中に未だに五郎丸への未練が残っていることを実感するような考えに包まれながら、震える足で八十五郎丸の後ろへ続き、アイス屋へとたどり着いた。

 

八十五郎丸と一緒に歩いたわずかな時間の中で、一つ気づいた彼の特徴があった。彼は極力私の前を歩こうとしない。私はアイス屋の場所など知るはずがないのに、なぜか彼は私の後ろにつこうとするので、いちいちストレスが溜まる。アイス屋にたどり着いたときでさえ、私より先に入口の扉を開こうともしない。連日通い詰めてるくせになんなんだ。

 

アイス屋は大変おしゃれで、店内は若くて可愛い女子で混雑していた。八十五郎丸よ、アンタこんなところに3日も連続で来ちゃって...ここがアンタの竜宮城なんだね...。

店の奥にアイスの入ったショーカウンターがあり、その奥に乙姫様と思われるこの店の中で一番権力を持っていそうな女性が立っていた。

ショーカウンターに向かいながら、乙姫様が八十五郎丸のことを見つけた瞬間に一瞬表情を変えたのを私は見逃さなかった。なにせ3日も連続で来ている常連だ。「もーまたきたんですかぁー♡」みたいなキャバ嬢営業があっても不思議ではないだろう。そう思った瞬間、乙姫様が八十五郎丸を一瞥して「フンッ」と鼻で笑った。それに対して八十五郎丸も「フヒッ」と応えて、二人の間にそれ以上会話が交わされることはなかった。え?会話それだけ?必要最低限過ぎない?なんなのアンタら?一度拳でも交えたの?

 

 

ショーカウンターの奥は足場が高くなっているようで、乙姫様は静かに私と八十五郎丸を見下ろしていた。私はその目がとても怖くて、思わずショーケースへと視線を逃した。そこにはとてもオシャレなアイスやジェラートが、なんちゃらカシスだのなんとかナッツだの、サバイオーネだのオリーブオイルだの、見慣れないタイトルをつけられて並んでいた。名前がオシャレすぎて何を頼んだらいいのかわからない...。そもそもここのシステムがわからない...。なぜ誰も何も教えてくれないのだろうか...。乙姫様、あんた客商売やる気あんのかよ。ていうか八十五郎丸、おめぇが率先して注文しろよ。おめぇ竜宮城で八十五年も何やってたんだよ。

 

どうすんだよ...という精一杯の想いを視線に込めながら八十五郎丸の方を見つめると、彼は「好きなのを3つ選べるやつにするといいと思うよ〜ンンフフフフフ」とやっと口を開いた。

じゃあそれで...と力なく答えると、乙姫様がさっと横にあるレジに移動し、「じゃあ先にお会計なんで。」と素早く口にした。乙姫様...金目当て感がすごすぎるよ...。

乙姫様はさらに「お会計ご一緒でよろしいですかー?」と続けてきた。

 

いや別で、と即答しようとしたが、実は私はあることに気づいていた。ここのレジには、カードリーダーがない。こいつSuicaで払うとか言ってたけど大丈夫なのだろうか...と思っていると、八十五郎丸が、今までで一番はっきりとした声で力強く、「はい。」とだけ答えた。

 

え?なに?もしかして私が可愛いから奢ってくれるのかしら?

 

そう考えながらその場に立っていると、私と乙姫様の間にいた八十五郎丸が、スッと壁際に移動し、私と乙姫様への間に道を作った。八十五郎丸はそうして壁を背にした状態で、眼球だけを左右にキョロキョロと動かし、横目でチラチラと私と乙姫様を交互に見ながら立ち尽くした。

 

は?なに?なにしてんの?それが八十五郎丸ポーズなの?地味だからやめたほうがいいよ...そんなんじゃ絶対話題にならないよ......

 

突如開始した八十五郎丸ルーティーンに目を奪われていると、正面から乙姫様のさっさとしろよという睨みの視線を感じて我に返った。気づいたら私たちの後ろには、オシャレな女子たちが列を作っている。

 

乙姫様...それは客商売の人間がしていい目じゃないよ...ゴルゴ13かよ...後ろに人に立たれて困っているのは私の方なのに...。なんだよ。なんだよこれ。八十五郎丸テメェ!さっさとキックしろよ!いつまでルーティーンしてんだよ!!眼球だけ左右にキョロキョロさせるってどんなルーティーンだよ!!!!

 

とうとうこのプレッシャーに耐えきれなくなった私は、とぼとぼと乙姫様の所に向かい、力なく二人分の1300円を支払った。こんな高級なアイスクリーム、久しぶりだなぁ...。

 

もしかしてこいつらグルなんじゃないだろうか。八十五郎丸はいつもこうやってルーティーンに誰かを組み込むことで生計を立ててるんじゃないだろうか...。空っぽになった心の中でそんなことを考えながら適当に選んだアイスを受け取る。

 

 

アイスを持ったままトボトボを竜宮城を後にする。

 

「ここのアイスほんと美味しくてぇ〜ヌウォフォフォフォフォフォ。はじめて食べたときほんと目ん玉飛び出るんじゃないかってくらいうまくてぇ〜フヒヒヒヒヒ。」

 

八十五郎丸はなぜか店を出て歩きだした途端急にご機嫌になり今までで一番ハイテンションになった。その感想、できたら乙姫様にも言ってあげたらいいんじゃないかな...そしたらあの突き刺すような眼差しも少しは優しくなるんじゃないかな...。というか人の金で食ってりゃそりゃ美味いだろうよ。そもそもなんで支払いに対して一切何も言及してこないんだこいつ。家に帰ってから返そうと考えてるにしても、なんか言えよ。

 

ていうかちょっと待って。なにこれ。このまま家行く流れなの?

 

歩きだして2分も経たないうちに、最初に待ちあわせた駅へと戻って来た。

 

八十五郎丸邸は、竜宮城と駅を挟んで逆側にあるらしく、我々が初めて出会った改札前についたタイミングで、八十五郎丸は「こっちですぅ〜フォフォフォフー!」と、ここにきて初めて私を先導するように力強く歩みだした。

 

私は改札を見つめ、今しかないと拳を握った。ごめん。ごめんよ八十五郎丸。貴方の大好きなそのアイスが、私からの手切れ金だよ。

 

「すいません...!あの...急用ができてしまって...!!」

 

うっすらとした罪悪感とともに、改札へと走り出す。でも今はこの自動改札機が、私にとってのシュタインズゲートだ。何度も絶望を繰り返して、誰かの不幸を踏み台にして、今日も私たちは時を駆ける。

 

逃げるようにして改札をくぐり抜け、ホームへと走る。ホーム脇に設置されたベンチにうな垂れるように座り込み、空を仰ぐ。八十五郎丸と出会ってから今までのこの間、人生で一番長く感じた15分だった。どっと老けた気がする。やはりあそこは竜宮城だったのだ。

 

 

竜宮城から戻ってきたこの地上はまだ昼過ぎである。まだだ。まだやり直せる。私は再びスマホを手にし、出会い系アプリを開いた。 私は諦めない。目的の世界線へと辿り着くその時まで。

 

一度誘いを受けていた残りの2名に、今何してますか?とメールする。26歳と31歳。

 

幸運なことに2人ともすぐに返事をくれて、しかも暇そうだった。今回の件が完全にトラウマとなっていた私は、よりコミュニケーション能力の高そうな方という観点で31歳の方を選択しかけていた。

 

その時である。

 

この31歳、なぜか頼んでもいないのに急に自らのおちんちんの写真をメールで添付してきたのである。

 

え?なんで?まさか私が竜宮城で過ごしてる間にこの国の挨拶の形式が変わったの?

 

 

たまに、いるのである。こういうことをする人間が。たしかに、これで喜ぶ人もいるのだとは思う。私だって、時と場合によってはヒャッハー!ってなるかもしれない。でもね、違う。少なくとも今じゃない。だって昼下がりだよ?私なんてコメントすりゃいいのよ?いい色ですね〜とか言って産地とか当てればいいの?

ていうかもはやタイミングとかの問題じゃないよ。そんなに安売りしてちゃ価値が暴落しちゃうよ。アンタのおちんちん、デフレスパイラルに陥っちゃってるよ。完全なるチンフレーションだよ。

 

チンフレ男に別れを告げて、26歳の方とお茶をすることにしたが、ビックリするほど盛り上がらずに、私の土曜日は終わった。

 

 

 

翌日、気を取り直して私はリアル脱出ゲームへと向かっていた。ドーム型の会場に6時間近く閉じ込められて謎を解き続けながら脱出を試みるというイベントである。昨日の八十五郎丸とのひとときの方がよほどリアル脱出ゲームなのであるが、私はこのイベントを1ヶ月以上前から楽しみに待っていた。

 

このイベントに誘ったくれた友人を、私は師匠と呼んで慕っている。師匠は私より3つも年下なのに、天性の人たらしの才能を持っており、特に恋愛面においては私にとっての先生なのである。私が恋に悩むたびに師匠はいつも「犬笛くんは普段はものすごく頭が良いのに、恋愛のことになると途端にバカになるよね」と、私の不器用さに呆れかえりながらも常に暖かくよりそってくれる。

 

師匠は自分が言いたい言葉よりも相手が言って欲しい言葉を探し出す天才で、私を脱出ゲームに誘う際にも「君の頭脳に期待してるからね」と私のやる気を巧みに焚きつけてきた。

当然その魅力に惹きつけられて寄ってくる人間は数知れず、私が今の友人関係にありつけたのも、師匠のおかげによるところが大きい。師匠...!私頑張るよ...!せめてもの恩返しに、師匠に最高の脱出体験をプレゼントしてみせるよ...!!

 

 

やる気に満ち溢れながら会場へと向かっていると、出会い系アプリにメッセージが届いていることに気づいた。

 

開いてみると昨日のチンフレ男からで、メッセージには一言「あ」とだけ書いてあった。

 

この人は何がしたいのだろう...と画面を眺めていると、「ていうか俺ら友達の友達かも!友達の写真に一緒に写ってるの見たことある!」などというメッセージが立て続けに3通も届いた。

 

急になんなのだろう。昨日おちんちんの写真を一方的に送られた相手からそんなこと言われてどうしろと言うのだ。今日は楽しいリアル脱出ゲームなのである。私はしばしこいつを無視することにした。

 

 

待ち合わせ時間よりも10分ほど早く、会場の最寄駅へと到着した。師匠ももうすぐ着くそうだ。私と、師匠と、共通の友人と、今回のチケットを取ってくれた師匠の友人、計4名が到着次第会場へと向かう段取りとなっている。

 

 

師匠の到着を待ちながら駅をブラブラしていると、私の目に信じられない光景が飛び込んできた。

 

 

改札前にチンフレ男が立っている...!

 

 

なんなのだろう。この引き。こんなところで良縁の運勢使ってる場合じゃないのに、神様はどうして私に、こんなにも奇妙な出逢いばかり授けてくれるのだろう。

 

反射的に柱の影に隠れる。おそらく同じ電車に乗っていたのだろう。出会い系アプリにより私との位置情報がやたらと近いことに気づきさっきメールをしてきたのだと思われる。でも今日はお前に構ってる時間はないのだよ。私は謎を解きにきたのだ。

 

 

柱の影に隠れながら辺りを見回していると、切符の券売機に師匠が並んでいるのを見つけた。

 

師匠!!急に安心した私はいつも以上に師匠との再会に歓喜した。師匠久しぶり!なんだか日焼けしてるね!夏をエンジョイしたんだね!私はね!昨日変なリアルをして大変だったの!あのね!なんか変なおじさんにアイスを奢らされて...

 

師匠はSuicaにチャージをしながら、ニコニコと私の話を聞きながら上手に相槌を打ってくれる。そのままチャージが完了し、師匠が場所を移動しようと脚を動かす。

 

そうだ!他の2人を待たなきゃね!今日は誘ってくれてありがとね!楽しみにしてたんだ!チケット取ってくれた師匠の友人にもお礼言わなきゃね!

 

券売機を背にして歩き出してもなお、師匠はニコニコと私の話を聞き続けてくれている。私は師匠の上手な相槌が心地よくて、師匠に導かれるようにどうでもいいことを話し続ける。私の口も、脚も、師匠に導かれるままに進み続ける。師匠には迷いがない。今もこうして、着実に前に脚を進めている。まるで他の2人をどこで待つのか、師匠の頭の中では既に決まっているかのようだ。でも師匠?そっちはちょっと危ないエリアだよ...?だってそっちのエリアでは、今なおチンフレーションが...

 

 

 

「こっちに今日チケット取ってくれた友達がいるから」

 

 

師匠の放った言葉が、私の耳を通過する。いつだってどんな時だって、師匠は私の欲しい言葉をくれた。でも何故か今だけはその言葉が、頭にスッと入ってこない。脳が何かを拒否してるみたいだ。

 

 

師匠の脚が進む。私の脚が重くなる。チンフレがスパイラルする。

 

 

 

「こちらが今日誘ってくれた◯◯くんです!」

 

 

 

チンフレ男の前に立った師匠の放った言葉は、この日のわたしが一番欲しくない言葉だった。

 

 

どんな表情をしたらいいのか分からないまま、「こんにちは」とだけ一言口にしてみる。こういう時に平気な顔で「はじめまして」と言える人が羨ましいなと微かに思う。チンフレ男からも「こんにちは」とだけ返答があった。

 

 

ポーカーの必勝法において、相手の表情や仕草を見ることにあまり意味はないのだと聞いたことがある。勝つためには相手の行動を分析することが鉄則らしい。人間というのは案外簡単にポーカーフェイスというものが出来てしまうのである。今の私たちみたいに。誰も私の表情から、まさか私が彼のおちんちんの写真というジョーカーを持っているとは予想だにするまい。チンフレ男に至っては、すべての感情をいっぺんに奪われましたってレベルのポーカーフェイスである。今ここを能の家元が通りかかったらスカウトされちゃうんじゃない?ってくらいの見事な能面に、もはや感動すら覚える。

 

我々は今日、6時間余りの間、協力して知恵を振り絞りながら謎解きに挑まなければならないのに、内心は気が動転してもはや謎どころじゃない。このままでは難しい問題が出題された際にパニクりすぎて「もしかしたらこれがヒントになるかも!」とか叫びながら彼のおちんちんの写真をテーブルに叩きつけたりしてしまいかねない。

 

 

もう一人のメンバーも合流し、脱出ゲーム前に昼食を取ろうということになり、近くのファミレスに入った。私は色々なことから気を紛らわせるために、昨日の八十五郎丸との一件についてひたすら話した。みんなその話をニコニコと聞いてくれ、 特に師匠は相変わらず私の欲しい相槌と共に、「自分も昔、事前のイメージと全然違う人が来たことがある。特に身長なんて、プロフィールには180cmと書いてあったのにどう見ても160cmくらいしかない小さいおじさんが来た。」という面白エピソードまで披露してくれた。

 

そういう時ほんとツラいよね!どうしてみんなそんな嘘つくんだろうね!特に数字を嘘つくなんて確実にバレるんだからそんなことするなんて最低だよね!などとひとしきり盛り上がりながら、心に余裕の出て来た私は、さっきからあまり喋っていないチンフレ男に話をふることまで出来るようになっていた。よく考えたら一番可哀想なのは圧倒的に彼だ。既に私の手におちんちんの写真というジョーカーがあるこのポーカーにおいて、彼に勝ち目はない。

 

気遣いの人である師匠が「チンフレ君ってほんとに若く見えるんだよ〜。何歳に見える?」とミニクイズを出題してきたので、私は彼が31歳であるどころか、身長も体重もおちんちんの造形までもを全部知っているのよ、という謎の優越感と共に、「うーん。29歳くらい?」という女神のような回答をして差し上げた。

 

おぉー!で、何歳なんだっけ? と師匠が一流の司会者ぶりを発揮してチンフレ男に回答発表を迫る。私も女神枠として「何歳なんですか!?」と目を輝かせてそれに乗っかる。

 

 

しかし、チンフレ男が顔を曇らせながら炸裂させた回答発表は、こちらの予想を見事に裏切ってきた。

 

 

「.........35歳。」

 

 

...え?なに?話違くない?もしかして急にブルゾンちえみのモノマネでもはじまったのかな?そんな急にされてもwith Bやってあげられないよ...?

 

 

師匠の「めっちゃ驚いてんね。そんなに意外だった?」という言葉で我に返り、「あ、えぇ。てっきり年下だと思っていたものですから。えぇ。」と予期せぬ年上の出現に中途半端な敬語となった回答をするのが精一杯だった。

 

息を呑みながら、自分の回答を振り返り、よく考えたら滅茶苦茶嫌味なことを言ってしまっているんじゃないかという気持ちに包まれる。しかもさっき数字で嘘つく奴は最低だなどと生意気なコンサルみたいなことまで言ってしまった...やばい...死にたい......

 

 

茫然自失となっていると、場を盛り上げなければという使命感に駆られたと思われる師匠が「こんなリアル相手は嫌だ」みたいなリアルあるあるを語り出した。

 

そして師匠は力強く「初対面からいきなりタメ口で話してくる人は嫌だ!年上でも嫌だけど、たまに年下でもそういう人いるよね?嫌じゃない?あぁ嫌だ嫌だ。」と周囲に同意を求め始めた。

 

師匠...もうやめて......。あなたが連れて来たこの人、いきなりタメ口だったよ...。しかも年下のていだったのに...。でも実際は年上だったからいいのかな...いやよくねぇだろ...。

 

どうリアクションすべきなのかの判断がつかず、回答につまっていると、師匠はいまいち場が盛り上がらないことに危機感を覚えたのか、目を丸くしてこちらに助けを求めてきた。え?なんでこんな分かり易い話題に乗っかって来ないの?と目で訴えてくる。

た、たすけなくっちゃ...せっかくの師匠のサービス精神を、無駄にするわけにはいかない...!

 

「そうだね...たしかに...。でも時々、相手と距離を詰めるために、いつタメ口に切り替えるかって悩むこととかある。うん。ある。いやぁ難しい問題だよねぇ。。」

 

自分でももはや何がいいたいのか分からないような乗っかり方になってしまった。出来損ないのコメンテーター状態である。師匠もなんだか怪訝な顔をしていたが、何かを察してその話題をそれ以上追求することは控えてくれたようだった。

 

 

その後、我々は脱出ゲームへと参加し、見事脱出に成功することができた。

6時間余りの間、謎を解くことよりも、チンフレ男との謎を隠し続けることの方がずっと神経をすり減らすものだった。私にとってはジョーカーを守り抜くリアル脱出ゲームだったわけであるが、なんでこんなことやってるんだろうということは、考えないことにした。

 

 

*1:元ネタ:シュタイズゲートというアニメ。前半戦はオタク臭がすごくて抵抗を感じるものの、後半に行くに従い夢中にさせられてしまう2011年の名作。2018年に7年の時を超えて続編が放送されるほどの根強い人気を誇る。主人公たちを襲う絶望の描写がとても見事な傑作。果たして彼らは、惨劇を回避して目的の世界線シュタインズゲートへと辿りつけるのか。